明智光秀ゆかりの地(2020年大河ドラマ「麒麟がくる」決定!)

明智光秀の丹波平定と綾部~足跡を巡る

「本能寺の変」において主君・織田信長を討ち、逆臣のイメージで語られることも多い光秀ですが、連歌や茶道にも造詣の深い教養人でもあり、丹波などかつての所領においては善政を行った名君として今も慕われています。

また、その政治的手腕は、最先端の教養と知識を備えた人物であったことを物語っています。

信長に仕える前の出自や経歴については不明な部分が多いものの、流浪の中で学問、鉄砲の技術、城攻めなどの戦略や知識を重ねていったと考えられています。

光秀の丹波平定に関わるゆかりの地を紹介します。

山家(甲ヶ峰)城

山家城主和久左衛門佐は山家に進撃してきた明智軍に降伏しましたが、山家城を破却する条件で許されたようです。しかし、城域内に照福寺があったので、城ではない寺であると称して城郭を取り払わなかったため、天正八年(1580)6月20日、光秀は軍をやって攻め落とします。このとき左衛門佐は逃走したため、和知の豪族出野左衛門助と片山兵内に和久を探し出し捕える旨を下知しています(御霊神社文書)。

【綾部市史上巻p214】

 

山家城址

 

山家城址

 

山家城址

 

山家城址

奥上林焼き打ち

奥上林地方の土豪達は、光秀の意にそわない動向が多かったとみえ、天正7年10月、睦寄町の金剛寺が兵火にかかって焼き打ちをうけています。

【綾部市史上巻p214】

福知山城を築く(栗村の寺の棟木を利用)

光秀は、丹波平定の功によって丹波二十九万石を封ぜられたたので亀山と福知山に居城を築いて国土経営に当たりました。(築城については近郷在住の寺院を壊したり、墓石を回収して工事の資材に使ったという伝承が各地に伝えられています。)

「横山に明智城を築に付……中略……其内弥々横山城屋敷取此三里計り間迄も村々墓所石塔皆々取て天守台に石垣につむ 又大石は山々にて掘出して引取近隣の寺々堂塔皆引崩して引取是を建て城とす 又同国何鹿郡栗村の上野にて此所七堂伽藍の寺有 同郡志賀の里に七不思議有 毎年正月元旦より七日迄の内 藤躑躅花忍び筍茗荷雫松志運の桜七不思議有る成 此雫(しずく)松栗村の寺の棟木と成て有し時に其寺横山へ取り城とす 是に依て今は福知山城の棟木成也 又牧村大谷観音寺も取て建と云ふ弥々城普請成就して福知山と号す」「丹波天田郡土産物書写」(福知山市誌所載)

【綾部市史上巻p215-216】

福知山城天守閣棟木

志賀郷七不思議の雫松が福知山城の天守閣の棟木に使用されています。明治初年の天守閣解体のとき、棟木にその由(志賀七不思議の雫松が天守閣の棟木に使用)が記してあったので志賀郷村へ引き取り方を申し入れてきましたが、多額の運送費を使って取り返すことはないとそのままになったといいます。現在雫松の皮の一部というものが伝えられているます、厚さが一〇センチメートルほどもある実に巨大で見事な松皮です。

【綾部市史上巻p215‐216】

※志賀郷公民館に「しずく松」の皮があります。

伐採した松を利用した説と、栗村の寺の棟木となっていた松を利用した説とがあります。

 

しずく松

 

しずく松

棟木伐採の逸話

明智光秀が福知山城を築くとき、城の棟木に必要な松の大木を探していたところ、しずく松・ゆるぎ松を探しあてました。早速、木こりをよこして、松を切らせたところその日に切った松の屑が一夜にして元の松の木に戻ってしまい、どうしても切り終えることができません。このことを聞いた家来は、腹をたて、火の中へ切っては焼き、切っては焼きして、ようやく切り終えたといいます。

【七不思議伝承と志賀の里・志賀郷公民館p25】

十倉領主

戦国末期から江戸初期までの領主の異動をしめす史料として十倉志茂町渡辺正之助家文書があり、戦国時代に山家・十倉を支配していた在地土豪が天正8年に明智光秀に征服され、その家臣明智五兵衛などの支配をうけています。

【綾部市史上巻p262‐263】

滝本山長福寺(向田の観音さん)

天正のころ明智日向守の志賀攻略がありました。家来の岡部山城守に別所願成寺の六坊山伏討滅させてその戦賞に同地滝谷の霊仏観音を与えたので、山城守はこれを自領に輸送せんとして向田に来り長福寺庭に休息したところ、不思議にも霊仏は、やおら地に根が生いついたように動かなくなり、やがて山城守自身も不動の金縛りにあったように身動きならなくなり、ついに兜を脱いでこの地に霊仏を奉安し、自らその給侍をしたと言い伝えられています。

【志賀郷村誌p295】

 

向田観音堂

 

向田観音堂

向田観音音頭

綾部市向田町にある滝本山長福寺の本尊聖観世音像は「向田の観音さん」と称し、眼病に霊験あらたかとし、近郷の尊信をあつめていた。明智光秀の丹波攻略のとき、志賀城主志賀因幡守は敗れ、この寺に拠ったため兵火にかかって焼けました。光秀は寄手の大将岡部山城守に本尊聖観世音像を戦賞として与えました。山城守は喜び持ち帰ろうとしたところ、観音像はピタリと動かなくなり、山城守自身も金しばりにかかって一歩も動けなくなりました。おののき恐れた山城守は、この地に尊像を奉安し、自らもこの寺の給侍となったと伝えられています。

 

毎年陰暦七月十七日、両丹はもとより但馬・若狭からも、何千という参詣人が集まって、夜は地元の踊りの他、参詣人によるさまざまな盆踊りが披露されたました、子の刻になるとぴたりと「向田観音音頭」に切り換えられ、一種の勤行のように修められたといいます。これは、向田観音の伝承と踊りが結びついたことを物語っています。その後伝承された音頭は、信仰の影が全くうかがえない「鈴木主水」や「巡礼お鶴」であり、盆踊りが信仰から次第に娯楽に変遷したことがわかります。

【綾部市史上巻p660-661】

向田観音の奉納踊り(向田踊り)は福知山音頭の16手のうち6手と同じです。

【「奥山に好奇心」ホームページ】

*福知山音頭は明智光秀が福知山城を築いた際、領民たちが石材や木材を運ぶ時に手振り足振り面白く唄い出したのが始まりという。

https://fv-ayabe.jp/shiga/

利水事業

一 綾部堰栗村堰大島堰 此三所福智山領主明智氏ノ始ト云(丹波負笈録)

【丹波志 何鹿郡之部、綾部史談会 p86】

伝承の域を出ず、確証はありません。

志賀家由緒

何鹿郡北野城主志賀因幡守政綱天正10年(1582)明智光秀に従って山崎合戦に一族滅亡(志賀利兵衛家文書・舞鶴市岡田)

【志賀郷村誌p294】

井関氏由緒

清水村 井関氏

明智光秀ニ随ヒ終ニ当谷虫村ニ落テ住ス

【丹波志 何鹿郡之部、綾部史談会 p55】

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